「どちらの問いも結局は生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となるような世界)とビリヤードの玉や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)との間がいかなる根底概念によって区切られているか、ということを問うている。この二つの世界を、ユングは(グノーシス哲学に倣って)それぞれクレアトゥラ(生あるもの)とプレロマ(生なきもの)と呼んでいる。私の質問はこういうことだった−プレロマとクレアトゥーラの相違、力と衝撃という概念で十分説明が可能な物理的世界と、差異と区別なしには何一つ語り得ない世界との相違は一体何なのか?」
G. Bateson 『精神と自然』
ベイトソンは、1949年〜1963年まではカルフォルニア州パロアルト市のメロンパークにある退役軍人病院(ヴァテランズ・アドミニストレーション・ホスピタル)で民族史家(Ethnologist)として勤務。1952年から1962年までの10年間、ウィークランド(John
Weakland)、ヘイリー(Jay Haley)と共に、で始めた分裂病のコミュニケーションに関する研究プロジェクトを行った。このプロジェクトでベイトソン等は分裂病患者の家庭をまわっては、患者と家族の相互作用を何百時間もテープに収めたようである。その後1954年、米国東部のメリーランド州にあるチェスナットロッジ病院でサリバンやフロム-ライヒマンの影響を受けた精神科医ジャクソン(後にMRIの初代所長)が「家族ホメオスタシス」に関する講演をこの退役軍人病院で行ったが、そこでジャクソンはベイトソンと知り合い、先のベイトソンの研究プロジェクトのコンサルタントとしてプロジェクトに参加したのである。これが家族療法のMRIが設立されるきっかけとな った出来事であったと言える。そしてこのプロジェクトは1956年にミシガン大学メンタルヘルス研究所から発刊されていた行動科学(Behavior
Science)」誌に発表された論文「精神分裂症の理論化に向けて(Towards a Theory of Schizophrenia)」としてまとめられた。この論文の中心は広く知られているなダブルバインド(二重拘束)仮説である。
1980年夏、数年間のガンとの闘病の末、折しもアメリカの建国記念日である7月4日ににサンフランシスコのベイエリアでその生涯を閉じた。7月11日に行われたベイトソンの葬儀では、ニューサイエンスの旗手であるフリチョフ・カプラが「結びつける型(The
pattern which connect)」と題する弔辞を読んだという。