このページでは、家族療法の大きな影響を与えた、G.Batesonに関するページです。


   



「どちらの問いも結局は生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となるような世界)とビリヤードの玉や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)との間がいかなる根底概念によって区切られているか、ということを問うている。この二つの世界を、ユングは(グノーシス哲学に倣って)それぞれクレアトゥラ(生あるもの)とプレロマ(生なきもの)と呼んでいる。私の質問はこういうことだった−プレロマとクレアトゥーラの相違、力と衝撃という概念で十分説明が可能な物理的世界と、差異と区別なしには何一つ語り得ない世界との相違は一体何なのか?」  G. Bateson 『精神と自然』 


 グレゴリー・ベイトソン(1904〜1980):父は高名な生物学者ウィリアム・ベイトソン。メンデルの遺伝法則の論文に光を当て、獲得形質遺伝学者のP・カンメラーにひどく意地悪をした学者として知られる。グレゴリー・ベイトソンは、グレゴリー・メンデルの名を父から与えられ、青年時代は自然科学の道を突き進む。父が教壇に立つケンブリッジ大学で生物学を修めた。

 しかしながらその後文化人類学に進み、文化人類学者として、3度目のニューギニア原始林への旅へ出かけたが(1932-1933)、その際に文化人類学の泰斗マーガレット・ミードに出会い1936年にミードの3番目の夫として結婚。同年「ナヴェン−3つに視点から引き出されたニューギニア一部属文化の合成酢が示唆する諸問題−」を刊行。その後1942年にミードと共著「バリ島の性格写真による分析」を著す。

 第二次世界大戦中はアメリカ戦略保体本部に勤務した。終戦後1946年から1952年にかけて、情報理論のノバート・ウィナー、ゲーム理論及びコンピューターの生みの親として知られるジョン・フォン・ノイマン、ウォレン・マカラックらと史上初のサイバネティクスに関する学会メイシー会議に参加。ここでの思索が後の家族療法にシステム概念をもたらすことになる。この会議は、二日間ずつ、10回にわたって開かれたという。ちなみに第1回会議は、ニューヨークのビークマンホテルで開催され、上記の他、神経性理学者、精神科医社会学者等21名が招かれていたとのこと。

 その後、1947〜1948年までのハーバードの客員教授の職を解かれたベイトソンはサンフランシスコに渡り、1951年、精神科医ジョーゲン・ルーシュと「コミュニケーション−精神分析の社会的マトリックス−」をまとめる。

 ちょうどこのころ(1950年前後)、米国臨床催眠学会の創設者であり、家族療法や短期療法に大きな影響を与えたミルトン・エリクソン(1901〜1980)に会った。出会ったきっかけは、マーガレットミードと共にバリ島でとった踊りのフィルムの中で、仮面を付けた踊り手がいつトランスにはいるのか分析を頼んだことであったという。二人の交遊はそれ以降同じ年に死亡するまで続いたという。

 ベイトソンは、1949年〜1963年まではカルフォルニア州パロアルト市のメロンパークにある退役軍人病院(ヴァテランズ・アドミニストレーション・ホスピタル)で民族史家(Ethnologist)として勤務。1952年から1962年までの10年間、ウィークランド(John Weakland)、ヘイリー(Jay Haley)と共に、で始めた分裂病のコミュニケーションに関する研究プロジェクトを行った。このプロジェクトでベイトソン等は分裂病患者の家庭をまわっては、患者と家族の相互作用を何百時間もテープに収めたようである。その後1954年、米国東部のメリーランド州にあるチェスナットロッジ病院でサリバンやフロム-ライヒマンの影響を受けた精神科医ジャクソン(後にMRIの初代所長)が「家族ホメオスタシス」に関する講演をこの退役軍人病院で行ったが、そこでジャクソンはベイトソンと知り合い、先のベイトソンの研究プロジェクトのコンサルタントとしてプロジェクトに参加したのである。これが家族療法のMRIが設立されるきっかけとな った出来事であったと言える。そしてこのプロジェクトは1956年にミシガン大学メンタルヘルス研究所から発刊されていた行動科学(Behavior Science)」誌に発表された論文「精神分裂症の理論化に向けて(Towards a Theory of Schizophrenia)」としてまとめられた。この論文の中心は広く知られているなダブルバインド(二重拘束)仮説である。

 その後ベイトソンは、ジョンリリーの招きで訪れたヴァージニア群島でイルカのコミュニケーションに興味を持ったベイトソンは、1963年〜1972年まではハワイの海洋研究に移り、ジョン・リリーとイルカのコミュニケーションの研究を始める。1971年から1972年にかけては13人のアメリカ人大学生と共に日本、スリランカ、インドを訪れ仏僧や東洋宗教の信者に会い、バリの山村の調査地を再訪したりしている。後に「ベイトソン」を著したD.リップセットはこの旅行に参加した一人であるという。その後1972年カルフォルニア大学のサンタクルーズ校に迎えられ、「精神の生態学」を著し、1979年には「精神と自然」を著した。

 1980年夏、数年間のガンとの闘病の末、折しもアメリカの建国記念日である7月4日ににサンフランシスコのベイエリアでその生涯を閉じた。7月11日に行われたベイトソンの葬儀では、ニューサイエンスの旗手であるフリチョフ・カプラが「結びつける型(The pattern which connect)」と題する弔辞を読んだという。

 尚、ミードとは後に離婚することになるが、ミードとの間にもうけた一人娘のメアリー・キャサリン・ベイトソンも大学教員として現在活躍中である。
 2007年の日本家族心理学会(於立正大学)において、招聘講師として来日し、ベイトソンの認識論について貴重な講演を行った。

 ベイトソンが家族療法やその後につづくブリーフセラピー、ナラティブセラピーに与えた影響は計り知れない。
今日、ブリーフセラピーにおいても、スケーリングクエスチョンやミラクルクエスチョンといった技法だけがマニュアル化され消費されているが、背景にこうした深い認識論があることを私たちは忘れてはいけない。




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